【ねんぴょう】いとうすけたみ

  • 1878ねん、たんじょう。なはもりまつ。
  • 1909ねん、しぶさわえいいちをだんちょうとするにほんじつぎょうかあめりかしさつだんにさんか。
  • 1910ねん、いとうごふくてんをかぶしきがいしゃとし、しゃちょうにしゅうにん。
  • 1913ねん、なごやしょうぎょうかいぎしょのふくかいとうにしゅうにん。
  • 1918ねん、「さんしょうてい」をちゃやまちからいちく。「ようきそう」となづける。
  • 1919ねん、「ようきそうざしき」をやばちょうごのきからいちく。このころからちゃかい、えんゆうかい、うんどうかいをたびたびかいさい。
  • 1922ねん、「ゆうほうけん」をとくがわていからいちく。
  • 1923ねん、このころからこうぞく、かぞく、ぶんかじんなどのらいそう、しゅくはくひんぱん。
  • 1924ねん、15だいいとうじろうざえもんすけたみをなのる。
  • 1927ねん、なごやしょうぎょうかいぎしょかいとうにしゅうにん。
  • 1929ねん、「ばんがろう」をおわりとくがわけおおぞねていからいちく。ようしつしんちく。
  • 1930ねん、「ぼせつあん」をほんけからいちく。
  • 1933ねん、なごやしょうこうかいぎしょかいとうをじにん。まつざかやしゃちょうをじにん。ざいだんほうじんしゅぜんかいをせつりつ。
  • 1934ねん、いんどなどぶっせきじゅんぱいのたび。
  • 1936ねん、はつの「がいこくじんりゅうがくせい」をたいからむかえいれ。
  • 1937ねん、「くるすけ」をいちく。「ちょうしょうかく」と「さんたーる」をしんちく。
  • 1939ねん、かとくをむすこにゆずり、なをじすけとあらためる。
  • 1940ねん、ちゃやまちほんていでえいみん。「じすけ」ついとうちゃかい。

【ねんぴょう】はんきゅうきょうとせんのけんせつ

もくじ
〔かいぎょうまえ〕〔せんぜん〕〔せんご〕【ろせんず】

かいぎょうまえ

はんきゅうきょうとせんのけんせつ (1) かいぎょうまえ 600-950

  • 1910ねん3がつとおか、みのおありまでんききどうが「うめだ - じゅうそう - たからづか」をかいぎょう。
    • 1918ねん2がつよっか、かいしゃのなまえをはんきゅうにへんこう。
  • 1920ねん7がつ16にち、はんきゅうが「じゅうそう - おうじこうえん - かみつつい」をかいぎょう。
    • 1936ねん4がつついたち、「おうじこうえん - さんのみや」をかいぎょう。

せんぜん

はんきゅうきょうとせんのけんせつ (2) せんぜん 600-950

  • 1921ねん4がつついたち、きたおおさかでんてつが「じゅうそう - あわじ - とよつ」をかいぎょう。
  • 1921ねん10がつ26にち、「とよつ - せんりやま」をかいぎょう。
    • 1923ねん4がつついたち、しんけいはんがきたおおさかでんてつのろせんをゆずりうける。
  • 1925ねん10がつ15にち、しんけいはんが「てんろく - あわじ」をかいぎょう。
    • 1926ねん、てんじんばしえきびるかんせい。
  • 1928ねん1がつ16にち、「あわじ - たかつきし」をかいぎょう。
  • 1928ねん11がつついたち、「たかつきし - かつら - さいいん」がかいぎょう。
  • 1928ねん11がつここのか、「かつら - あらしやま」がかいぎょう。あらしやませんのかんせい。
    • 1930ねん9がつ15にち、けいはんがしんけいはんをがっぺい。
  • 1931ねん3がつ31にち、「さいいん - おおみや」をかいぎょう。
  • 1943ねん10がつついたち、はんきゅうがけいはんをがっぺい。

せんご

はんきゅうきょうとせんのけんせつ (3) せんご 600-950

  • 1949ねん12がつついたち、けいはんがぶんり。
  • 1963ねん6がつ17にち、「おおみや - かわらまち」をかいぎょう。きょうとせんのかんせい。
  • 1963ねん8がつ29にち、「せんりやま - みなみせんり」をかいぎょう。
  • 1967ねん3がつついたち、「みなみせんり - きたせんり」をかいぎょう。せんりせんのかんせい。
  • 1969ねん12がつむいか、おおさかちかてつが「てんろく - どうぶつえんまえ」をかいぎょう。
  • 1993ねん3がつよっか、おおさかちかてつが「どうぶつえんまえ - てんがちゃや」をかいぎょう。ちかてつさかいすじせんのかんせい。

ろせんず

はんきゅうきょうとせん - ろせんず 600-950


あんじょう松平の資料

あんじょうし歴史博物館にあんじょう松平家にかんする展示資料をみてきた。

〔2023年8月16日訪問〕

◇            ◇

三河一向一揆関係図

2023.8.16 (1) あんじょうし歴史博物館 - 三河一向一揆関係図 1450-1310

家康がた
刈谷城水野氏、福釜城松平親俊、藤井城、岡崎城、上和田城大久保氏、土井城本多広孝、青野城松井忠次西尾城酒井正親、形原城、深溝城、竹谷城、五井城、長沢城
一揆がた
上野城酒井忠尚、佐々木上宮寺、桜井城松平家次野寺本証寺針崎勝鬘寺、土呂本宗寺、八ツ面城荒川義広、東条城吉良義昭、六栗城夏目吉信、大草城松平昌久

年表

2023.8.16 (3) あんじょうし歴史博物館 - 中世あんじょうの年表 2200-1000

安城松平家安城

2023.8.16 (4) あんじょうし歴史博物館 - あんじょう松平家 1360-2050

  • 安城松平家
    • 松平氏は15世紀初頭に現在の豊田市松平町で興ったとされております。1476年頃、松平宗家3代信光は自身が手に入れた安城城を、子である親忠に譲り渡します。これにより、松平親忠を初代とする安城松平家が始まりました。
    • 安城松平家は、2代長忠、3代信忠の代になると、各地に様々な家が分立する松平一族を代表する惣領的立場となりました。三河支配を進めたとされる4代清康の代には拠点を岡崎へと移し、安城松平家の血は清康の子広忠、そして家康へと受け継がれました。
  • 安城
    • 安城城は、安城松平家4代清康が山中城岡崎市)に居城を移すまでの4代およそ50年にわたり安城松平家の居城でした。1535年に清康が「守山崩れ」で亡くなった后、尾張織田信秀駿河今川義元の力を借りた清康の子広忠との、安城城をめぐる「安城合戦」が10年近く繰り広げられます。その際、本多忠勝の祖父忠豊と父忠高が命を落とすなど、多くの犠牲を出すこととなりました。
    • この長きにわたる戦の末、1549年今川氏は、信長の兄信広を捕らえ、安城城付近の「西野」で織田家の人質となっとった竹千代(家康)と人質交換を行なったと伝えられております。
    • 1560年の桶狭間の戦い后に安城城は廃城になったとされます。現在本丸跡には大乗寺、二の丸跡には東尾八幡社があります。

松平8代

徳川家康にさきだつ松平8代。わがすむあんじょうしともおおきなかかわりのある松平8代についてみてみる。愛知県岡崎市公式観光サイトの松平8代にかんする記述と、あんじょうし歴史博物館のあんじょう松平家にかんする展示資料による。

◇            ◇

徳川の前身、松平8代の歴史〔愛知県岡崎市公式観光サイト〕
安城松平家安城〔あんじょうし歴史博物館展示資料〕
初代
親氏

〔愛知県岡崎市公式観光サイト〕
1400年代初め頃の西三河に新しい武士の一家が出現した。加茂郡松平郷(いまの豊田市松平町)を本貫とする松平家である。親氏は時宗の僧で徳阿弥(とくあみ)と称し、諸国を遍歴し、三河の地にたどり着いた。加茂郡松平郷の松平太郎左衛門信重の娘婿となり、跡目を継ぎ「松平親氏」と名乗った。ここから松平、后の徳川家の活躍が始まったとされる。

2代
泰親

〔愛知県岡崎市公式観光サイト〕
松平2代泰親は、法名用金といい、親氏の子、または弟ともいわれる。岩津(岡崎市)に進出、岩津大膳を討ち、岩津城を奪取したという。

3代
信光

〔愛知県岡崎市公式観光サイト〕
信光は大給(豊田市)保給(いまの岡崎市額田町)を攻め取り、1465年には額田郡牢人(丸山・大庭・尾尻・高力・芦谷)が井口砦(岡崎市井ノ口町)で起した一揆を鎮圧した。応仁・文明の乱中には安城・岡崎の2城をも攻略した。領地の拡大とともに庶子を各地に分封、松平氏発展の基礎を固めた。室町幕府将軍の御料所である額田郡において松平信光が勢力をのばすことができたのは、松平氏室町幕府政所執事伊勢貞親と被官関係にあったからであると考えられる。

〔あんじょうし歴史博物館展示資料〕
松平氏は信光の代に松平郷から岩津に進出し、一族を大きく広 げていきました。それぞれ地名を付け松平を名乗りました。 安城松平家安城安城城を拠点にした松平氏の一つです。

4代
親忠

〔愛知県岡崎市公式観光サイト〕
親忠は、信光の3男で、当初鴨田郷(岡崎市鴨田町)に分立されとったが、文明(1469年から1487年)の初年ころ安城城を譲られて移転安城松平家の初代となった。のち、安城松平家松平家惣領となるために、信光についで松平8代の4代目とされる。1475年、鴨田に菩提寺大樹寺を創建。1487年に麻生城の天野弥九朗を攻めたほか、1493年には井田野合戦で松平方の指揮をとり、 松平一族内での信望を集め地位を高めた。

〔あんじょうし歴史博物館展示資料〕
安城松平家は1476年以降に信光から安城城を譲り受けた親忠を初代とします。親忠は1493年に井田野合戦で、賀茂郡碧海郡北部の領主連合が攻めてきた時、その頃京都を活動の場としとった惣領の岩津松平家に代わって一族を指揮して勝ったといわれます。岡崎市にある大樹寺安城松平家菩提寺として1484 年(あるいは1475年)に親忠によって創建されました。

5代
長親

〔愛知県岡崎市公式観光サイト〕
長親は親忠の子で、安城松平家の2代目にあたる。同家は松平惣領家となったために、いわゆる松平8代の5代目とされる。1473年生まれで、初名は、長忠のち長親。1506年今川氏の三河侵入の時は、安城より出撃し、井田野で今川軍と対戦し、激戦の末これを退去させた。その后も続いた永正年間(1504年から1521年)の大乱のなかで松平惣領家の岩津家が滅び、長親の安城家が惣領となった。

〔あんじょうし歴史博物館展示資料〕
1506年から1509年の間、三河国駿河の今川氏が攻めます。これを永正三河大乱といいます。この軍勢は伊勢宗瑞(后の北条早雲)に指揮されておりました。この大乱で惣領家の岩津松平家の者が多く亡くなり、松平一族の中で安城松平2代の長忠(長親/后の道閲)が活躍し、安城松平家は、その后、松平一族の中心的な家になりました。また、長忠の代には、市内の桜井、福釜、藤井各松平家を創出します。

6代
信忠
〔愛知県岡崎市公式観光サイト〕
長親の子で、父から家督を継いで安城松平家3代目となる。松平氏の惣領となり、松平8代のうち6代目とされる。『三河物語』によると、信忠は慈悲心がなく、暗愚であり、政務の手腕もなかったと記される。しかし、安城松平家の支配圏外であった大浜(碧南市)・坂崎(幸田町)・ 滝(岡崎市)・岩津(岡崎市)の寺院に禁制・寄進状が信忠によって出されていることをみると、信忠による同家の勢力拡大が知られる。永正(1504年から1521年)末年から大永(1521年から1528年)初年にかけて家督をめぐって安城松平家の内訌が起こった。信忠を廃して弟信定を擁立しようとするもので、父長親も信定を偏愛したといわれ、家臣は信忠派と信定派に分裂し争ったという。

〔あんじょうし歴史博物館展示資料〕
3代信忠は松平一族一揆の体制からの脱却を目指しますが、一族や家臣の抵抗に遭い、大浜(碧南市)に隠居し、子の清康が若くして当主となりました。

7代
清康

〔愛知県岡崎市公式観光サイト〕
安城松平家の信忠の子として1511年に生まれた。1523年家督をついで安城松平家の4代目となり、松平氏の7代目惣領となった。1524年には岡崎松平家の信貞と対立、同家の山中城を攻め落とした。さらに岡崎城をも明け渡させ本拠を安城から岡崎に移した。以后、三河統一をめざした清康の戦いが始まる。1525年に足助の鈴木氏を攻め、1529年には吉田城の牧野氏をはじめ、東三河の戸田、設楽、西郷、本多、山家三方衆(作手奥平、長篠・田峯の菅沼)の各氏を帰服させた。さらに、1529年に幡豆郡小島城(西尾市)の鷹部家氏を追い、1530年には八名郡宇利城(新城市)の熊谷氏、1531年には加茂郡伊保城(豊田市)の三宅氏をそれぞれ攻めた。しかし、1535年に織田信秀を攻略するために尾張守山に出陣したところ、家臣の阿部弥七郎に殺され、松平氏三河領国支配は瓦解した。
守山崩れ
1535年12月5日、清康は尾張守山の陣中で家臣の阿部弥七郎に殺された。弥七郎は阿部大蔵定吉の子で、父の謀反の流言によって処罰されるかもしれないと前夜聞かされており、当日の朝、放れ馬による騒ぎに父が成敗されたと思い込み清康を殺したという。清康の死によって松平氏三河支配体制は一挙に崩れた。世にこれを「守山崩れ」という。『三河物語』は「清康三拾之御年迄モ、御命ナガラエサせ給ふナラバ、天下ハタヤスク納サせ給ンに、廿五ヲ越セラレ給ハで御遠行有社(コソ)、無念ナレ」と清康の生涯を評している。

〔あんじょうし歴史博物館展示資料〕
4代清康は1530年に岡崎に本拠を移し、それを機にして、安城城周辺の寺社が岡崎に移っていきました。甲山寺や真如寺、善立寺などの所伝には安城での創建が書かれております。1535年4月、清康は大樹寺の多宝塔建立に際し、心柱に銘文を残しております。そこには 「大檀那世良田次郎三郎清康安城四代岡崎殿」とあり、安城松平家の正統な后継者を主張したと考えられます。長忠の永正三河大乱后から清康の岡崎移転までのおよそ20年間、安城城は松平一族の中心地であったのです。清康は1535年12月、守山崩れで家臣に殺されました。清康の子が広忠、孫は徳川家康です。徳川家は安城松平家の正統な流れになります。

8代
広忠

〔愛知県岡崎市公式観光サイト〕
清康の子で、母は青木貞景の娘。清康が殺された時10歳で、織田信秀の岡崎攻撃をよく防いどったが、松平家の内紛により桜井松平家の信定によって岡崎を追われ阿部定吉ら僅かな家臣とともに伊勢・遠江を流浪した。1537年駿河今川義元の援助とともに、大久保忠俊らの工作により岡崎に還住することができた。広忠時代の松平氏は、西からの織田信秀の進出に対抗するために、今川義元を頼り、今川氏の一部将となった織田氏三河侵入が激化した1540年には安城城が陥落、さらに、松平一族の忠倫、家臣酒井忠尚が信秀に通じ、矢作川以西は織田方という状況になった。1542年と1548年には小豆坂(岡崎市)で織田勢と今川勢が激突、1542年の時は松平氏と今川氏ともに織田氏に敗北したが、1548年の時は織田氏に勝利した。広忠は1541年水野忠政の娘である於大と結婚し、翌1542年家康が生まれた。しかし、1543年水野氏が織田方になったために於大を離縁、翌1544年田原城戸田康光の娘真喜姫と結婚した。1549年織田方の佐久間全孝の刺客岩松八弥に岡崎城内で殺された

2023.8.16 (2) あんじょうし歴史博物館 - あんじょう松平家とあんじょう城 1100-1530

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(かんたんなまとめ)
1400年代はじめごろ、松平郷に松平氏おこる。
3代信光が岩津にうつる。また、多数の分家をつくる。
1510年ごろ、5代長親のあんじょう松平が岩津松平をしのいで松平宗家になる。
1530年、7代清康が岡崎に本拠をうつして20年間のあんじょう時代がおわる。また、三河各地を平定。1535年、守山くずれによりなくなる。
8代広忠は流浪のあと、今川の一武将として岡崎にもどる。1540年、織田にあんじょう城をとられる。1549年、岡崎城内でころされる。
栄光の時代は7代清康のとき。三河各地を平定するも守山くずれによりなくなる。よくぞこいで松平家がつづいたもんだ。8代広忠のこが家康になるだけど、もはや三河の領主っていうたちばじゃあなかった。今川の一武将として駿府にくらしとったところ、1560年の桶狭間のたたかいで今川が織田にやぶれて、ほのどさくさにまぎれて旧領をとりかえして自立したってかんじか。

【徳川の前身、松平八代の歴史|愛知県岡崎市公式観光サイト】
安城松平家安城城|あんじょうし歴史博物館展示資料(2023年8月16日)】